BACK 2008.3.17更新
藤田嗣治(明治19年〜昭和43年 1886〜1968)略歴
明治19年 1886 後に陸軍軍医総監となる藤田嗣章の次男第四子として、東京に生まれる。
4歳のとき母死去。
少年期より画家を目指し、留学を考えるが、父の上司森鴎外の助言で、
東京美術学校に入学し卒業。
その後、文展に3回落選。
大正 2年 1913 26歳のとき、新婚の妻とみ(鴇田登美子)を残し、パリに留学。
西欧の文化美術の吸収に専念する。
大正 3年 1914 第1次世界大戦で父からの送金が途絶え、窮乏生活をする。
大正 5年 1916 父との約束の3年も過ぎ、妻の渡仏もかなわず、離婚。
大正 6年 1917 フェルナンド・バレーと結婚。シェロン画廊と契約。
大正 8年 1919 サロン・ドートンヌに6点初入選。
大正 10年 1921 モンパルナスの女王キキを描いた裸婦が大評判になる。
その独自の技法は「素晴らしい白地」と称され、画家としての地位を確立。
昭和 4年 1929 三人目の妻ユキ(リュシー・バドゥー)と17年ぶりに帰国。
日本での個展を大成功させる。
昭和 5年 1930 世界大恐慌で美術市場は低迷。ユキとも離別することになる。
昭和 6年 1931 四人目の妻になるマドレーヌ・ルクーを伴い、中南米各国をまわる。
昭和 8年 1933 秋、中南米より帰国。個展や二科展などで旺盛な作画活動をする。
昭和 9年 1934 平野政吉と知り合う。
昭和11年 1936 6月マドレーヌ急死。 12月堀内君代と結婚。
昭和12年 1937 2月から3月にかけ、平野政吉の米蔵で、大壁画《秋田の行事》
縦365×横2050cm油彩キャンバス5枚を15日間で完成。
昭和13年 1938 このころから戦争画を描きはじめる
昭和14年 1939 4月渡仏。 9月第二次世界大戦勃発。
昭和15年 1940 7月帰国。
昭和16年 1941 1月父死去。 12月太平洋戦争はじまる。
昭和20年 1945 8月疎開先で終戦。
美術界での戦争責任の追及がフジタに対してはじまる。
昭和24年 1949 アメリカへ出国。
昭和25年 1950 アメリカからフランス パリへ渡る。
昭和30年 1955 フランス国籍を取得。
昭和34年 1954 カトリックの洗礼を受ける。洗礼名はレオナルド。
昭和36年 1961 パリ郊外ヴィリエ・ル・バクルに転居。
昭和41年 1966 ルネ・ラルー(シャンパン会社経営)の支援を受け、2年間の準備をし、
ランスに設計からフレスコ壁画までの礼拝堂ノートルダム・ド・ラペ
(平和の聖母)を完成。
発病。
昭和42年 1967 5月5日、秋田市に財団法人平野政吉美術館開館。
昭和43年 1968 1月29日、スイスのチューリッヒの病院で病死。81歳。
フランスのランスに自らつくった礼拝堂に眠る。
主な栄誉
レジオン・ドヌール勲章 ベルギー王室アカデミー会員 勲一等瑞宝章など
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